運命と宿命の話し
この科学万能の時代、私達の周囲には科学でも解明出来ない事が、
たくさんあります。
また大宇宙を人工衛星やスペースシャトルが飛び交い、
コンピューターが無限に近い数値を、瞬時に割り出す現代なのに、
私達は自分の明日の命さえも判らないのです。
例えば今まで歩いて来た一本の道が左右に分かれたとして、
私達は右に行くべきか? 左に行くべきか?
それを選択するのに、何ら迷わない人がどれだけいるでしょうか。
そして、その選んだ結果はどうなるでしょう・・・。
右に行ったら、たまたま車が故障して困っていた女性がいて、
それを助けたのが縁で、幸せな結婚をするかもしれません。
一方、左に行った結果、突然脇道から飛び出して来た車と衝突して、
命を落とすかもしれません。
今までの人生を振り返ってみても、こんなチョットした選択の違いで
左右された分岐点って、誰しもあったと思います。
勿論、何も好きこのんで災難への道を選ぶ人は皆無でしょう。
もし事前に左折したら事故に遭う、と判っていたら誰でも右に曲がります。
つまりは右に曲がるか、左に曲がるかを事前にキャッチするのが
「運命学」なのです。
古代中国の賢者達は、その英知を傾け人の運命を
事前にキャッチする法則を探しました。
現代に伝わる「気学」をはじめ「易学」「四柱推命学」といった占術は、
すべてその集大成として出来たものです。
ところが、それらの占術は大半が「宿命鑑定法」に
終始していた、きらいがあります。
つまり吉凶禍福(幸運・災難)に巡り会うのは、
その人の宿命であると主張するものです。
「人の力ではどうにもならない運命だから」とか
「決められた宿命だから仕方ない」とか、
人に諦めを強制するものであったようです。
しかし、それでは占う意味も必要もなくなってしまいます。
占わない方が、まだマシということになるでしょう。
人に決められた宿命があることは確かですが、
宿命に流される人生などマッピラ、生きる甲斐がないというものです。
決められた宿命があるなら、それを打ち破り凶運を吉運に変えれば良いのです。
アメリカの小説家、O・ヘンリーの作品の中に「三つの道」という、
人間の宿命について説いた面白い作品があります。
ある一人の若者が志を立て都会に出て来る途中、
道が三つに分かれている場所に差し掛かりました。
さて、どの道に行ったら良いのか? 迷った彼は手にしていた杖を
立てて手を放し、杖が倒れた方角に行こうと考えました。
すると一番右の方向に杖が倒れ、若者は一番右の道を選び進んで行きます。
その後彼は色々な出来事に出会い、政治家を志ます。
十数年の後、新進の政治家として知られた彼が辿った最期は、
とどのつまり、自分の書斎で妻に射殺されて一生を終えるのです。
と、そこで又、物語は振り出しに戻ります。
三つの分かれ道に差し掛かった若者が、手にしていた杖を放し
倒れた方角に行こうと考えます。
杖は真ん中の道を指し、彼は真っ直ぐに進んで行きます。
真ん中の道を進んで行った彼は芸術家を志します。
十数年の後、新進の芸術家として知られるようになった彼の最期は、
自分の書斎で妻に射殺されます。
と、そこで又、物語は振り出しに戻り、三つの道のどの道に行こうか
迷った若者が、路上に杖を立て、倒れた方角に行こうと考えます。
杖は一番左の道を指しました。
左の道を歩んだ彼は、十数年の後、事業に成功して著名な実業家となります。
彼の辿った最期も、やはり自分の書斎で妻に射殺されてしまいます。
ザッとこんな物語ですが、人の一生はヒトツの定められた路線に
あることを表現したものです。
人間には天から授かった宿命があり、これは動かし難いものである・・・
と、考えるのが「宿命論」です。しかし人間には運命があります。
天から授かった固定した宿った命に対して巡る、動く命といいますか、
どんなに良い宿命の人でも、運命次第では折角の吉兆が壊れますし、
どうにもならない宿命の人でも、良い運命が来れば開運し発展もします。
君子と呼ばれるほどの人は、自らの宿命を知って、短所・長所を明らかにし、
欠点が少しでも出ないように、修養に励みました。
巡り来る運命が判っていれば、それに備えればよいのです。
簡単な話、朝起きた時どんな上天気でも、午後から雨になると
判っていたら、傘を持って出掛けるでしょう。
運命を教える運命周期は、その天気予報みたいなものです。
運命鑑定は無限な活用が可能ですから、
己の宿命に諦めて流され必要はないのです。